胱月院 司こうがついん つかさは普通に優しかった。
先日の素っ気なさなど嘘のように。
声をかける前から教材の一切を見せてくれたし、昼休みには学校を案内してくれた。
休み時間に真咲の机に殺到したクラスメートたちの一斉放火のような質問の嵐からも助けてくれた。
初めは裏があるんでは、と疑いもしたが、転校生にくっついてきても大きな利益はない。
ついでに、何より胱月院の事をよく知らないのだから、疑ってもしかたのないことだ。
先日のは、人違いだったのか?
輪郭をなくしつつある記憶を疑い始めるほどだった。





放課後、一度アパートに帰り、荷物を置いて制服を脱いだ。
六畳と五畳の洋間に台所とトイレと風呂がついていて、一人暮らしにはちょうどいい。
財布を持ってアパートを出た。
過ごしやすい春の気候。空気はいいとは言い難いが、清々しさは変わらない。
そのまま歩き出す。
池袋の集まる人の数はハンパじゃない。
もっとも、今日は平日だが、休日ともなると車などない方がいい程。
自転車だって不便になる時がある。
移動手段は専ら電車か徒歩。
それで十分に事は足りる。
一人暮らしは大変だが、自由で気まま。
全て一人でやらなければならない分、縛るものもなければ気にしなければならない人もいない。
だから、のんびり歩いていた。
向かった先は東武。
引っ越してきたばかりで、冷蔵庫の中はまだまだ寂しい状態で、一食分もまともに作れそうにない。
地下へ降りていく。
挽き肉が安い。
今晩はハンバーグにしようと、挽き肉と玉ねぎ、人参、特売だった卵、パンと牛乳を購入した。
これだけあれば、朝食も十分作れる。
真咲はもともと料理が得意なのだ。
東武を出て、東口へ地下を行く。
学校帰りの学生が多い。
まだ時刻は5:30過ぎ。
これから遊ぶものも多いだろう。





「おやまぁ。見ない顔だねぇ…」





気味の悪い声に振り返る。
そこには黒いヴェールをかぶり、全身に黒を纏った小さな老女が座っていた。
表情は見えないが、声の調子からどうやら笑っているようだ。
その老女の前には、小さな机と小さな椅子が置かれている。占い師らしい。
辺りはいつものように騒然としている。
この騒音の中、何故かこの老女の声ははっきりと聞こえてきた。
真咲の頭の隅で、イエローランプが点灯した。
――関わらない方がいいよな
真咲は無視して通り過ぎようとした。
「あんただよ。十条真咲」
ピタリと足が止まる。
老女のにたりと笑った口元が見えた。
「どうして俺のこと知ってるんですか?」
「あたしが知らない事など一つだってありゃしないのさ」
歩み寄ると、老女は椅子を勧めた。
とりあえず真咲は勧められるまま椅子に腰を降ろした。
「俺、そんなに金ないですよ」
「面白い坊やだ。あたしゃ客引きなんてしないよ」
「じゃあ、今のこれは何なんですか」
「そうさねぇ…。あたしの暇つぶしってとこかねぇ」
ひゃっひゃっひゃと老女は笑った。
「あんた、ここに来てまだすぐだろう」
「…そうですけど」
「そう嫌そうな顔をするもんじゃないよ。あんたにいい事教えてやろうと思ってねぇ」
これだけ怪しい老女に絡まれて、平然としていられる人がいるなら紹介してほしい。
真咲はため息をついた。
「だから、俺は金持ってないって」
「どこにただの話し相手から金とる馬鹿がいるんだよ。黙って聞きゃいいのさ」
老女は語り始める。
「この街はあんたにとっての分岐点。運命の分かれ道だ。この街で過ごすこの一年がこれからのあんたを決める。
よく考えて生きるがいいさ」
一拍おいて、老女はにたりと笑った。
「あんたも同じだよ。せいぜい死ぬほど考えながら生きるんだねぇ、司」
振り返ると、胱月院が腕を軽く組んで、壁に寄りかかるように立っていた。
こちらも一度帰宅したのか、カジュアルな私服姿。
「大きなお世話ですよ、お菊さん」
「その調子じゃ相変わらずみたいじゃぁないか。長生きしないよ」
「説得力がありますね。年齢不詳、皮肉好きの占い婆さんに言われるとなおさらだ」
「口が減らない坊やだ」
「褒め言葉として受け取っておきますよ」
「え?あっ、ちょ…っ」
言うなり、胱月院は真咲の腕を掴んで無理やり立ち上がらせた。
そのまま歩き出す。
「おい、胱月い…」
「黙ってついてこい」
半ば引きずられるようにその場を去る。
振り返る。
占い師の老女は、ねっとりとした笑みを口元に浮かべていた。
先を行く胱月院の歩みはしっかりしたもので、目的地はあるようだった。
着いたのは、地下街にあるとある喫茶店。
ガラガラというわけでもなく、客はそこそこ入っている。
何が何だかわからないうちに、胱月院は適当な席に座って、紅茶を二つ注文した。
言われるままに、真咲もとりあえず同じ席についた。
空いているとなりの椅子に買い物袋を置くと、まず聞こえてきたのはため息と呆れた声。
十七夜かのうさんといい、菊婆といい…。何でお前は見かけるたびに厄介なのに絡まれてんだ」
「菊婆?」
「さっきの占い師だ。内鏡双菊うちかがみ そうぎくは池袋をテリトリーにしている神出鬼没の婆さんだ」
「へぇ―…。…じゃなくて!」
またしても珍しい名前の人にあった、と思ったが、今はこいつに聞かなきゃならないことがある。
「お前学校とキャラ変わりすぎだろ!?」
何だか別のことを聞くべきだったような気がする。
「当たり前だろ。学校は1日の大半を三年も過ごすんだぞ。愛想よくしておいた方が何かと都合がいい」
あんまり聞きたくない答えだった。
注文した紅茶が運ばれてきた。真咲はそれに少し砂糖を入れ、胱月院はそのまま一口。
「…じゃぁ、この間と今日助けてくれたのは?」
「先週のはただの気まぐれだよ。特に深い意味はない。 強いて言えば、俺の機嫌が悪くてね。十七夜さんに八つ当たりしていた」
まさか転校生だとは思わなかったけどね。
優雅に紅茶を飲みながら付け足された。
なんじゃそりゃ。
「…今日のは?」
「少し使えそうなヤツを探していたんだ」
「それが俺をこんなところに連れてきた理由?」
「そういうこと」
真咲は思った。謎の美人より、怪しい占い師より危ないのはコイツなんじゃないのか、と。
「使えそうって、何に対して?」
「話し相手さ。菊婆の相手ができるヤツなんかそうそういない」
「話し相手って…。胱月院は話し相手に困るほど友達いないわけじゃないだろ」
「俺のじゃない」
「じゃあ誰の」
その瞬間、後ろから甘ったるい若い女性の声がした。
「あ、いたいたっ。司く―ん」
振り返ると、茶色い長い髪をした女性がこっちにやってくる。
二十代の真ん中くらいだろうか、異常に短いミニスカートをはいていた。
真咲はものすごく嫌な予感がした。
自分の顔が引きつっていくのを感じる。
「まさか…」
「そのまさかだな」
胱月院は興味もなさそうに紅茶をすすった。
歩み寄ってきた女性に、学校と同様の優しげな笑みを浮かべる。
「こんにちは、祥子さん」
「久しぶりね。またカッコよくなったんじゃない?」
「そんなことないですよ。祥子さんこそ、一段とお綺麗になられたようですね。髪、とてもお似合いですよ」
「ホント!?気づいた!?嬉しい!ありがとうー」
胱月院と話していたが、女性の目はすぐに真咲に向けられた。思わずぎくりとする。
「こちらの彼は?」
「今日祥子さんと遊ぶ人です。」
「司くんじゃないの!?」
「急にどうしても外せない用が入ったんです。すみません」
「しょうがないなぁ…。でも、なかなか可愛い顔してるじゃない。君、名前は?」
「十条真咲」
すかさず胱月院が答える。
女性は少し考えた素振りを見せてから、にっこり笑った。
「真咲くんか。OK、合格よ。あ、私のことは祥子って呼んでね。タメ口OK」
「は、はぁ…」
真咲には何が合格なのかわからない。
ただ女性が向ける笑顔曖昧な声を発するのが精一杯だった。
「ただし、今度は絶対司くんだからね」
「わかってますよ」
胱月院は少しだけ苦笑して、明らかに年上の女性を軽く撫でた。
その仕草に女性は嬉しそうに目を細める。
端から見ていると恋人同士のようだ。
「じゃ、行こうか」
「い、行くってどこに?」
「真咲の好きなとこでいいよ。でも、とりあえず晩ご飯かな?」
「祥子さん、これ」
胱月院は黒いポーチを差し出した。
「いいよ、あたしの奢り」
「彼小心者で、心苦しがると可哀相ですから」
「んー…、わかった。じゃあ遠慮なく」
女性は胱月院からポーチを受け取り、真咲の腕をつかんで椅子から立たせた。
「これは俺が届けておく」
そう言うなり、真咲の隣に置いてあった買い物袋を手に取る。
「いや、俺は普通に家に帰るし。ってか、胱月院俺ん家知らないだろ?」
「知ってる」
「何で!?」
「何ででもいいだろ」
「いや、よくないだろ!?いろいろと!」
「ほら、行こ―。司君、お会計よろしくね」
「え!?いや、ちょっ…」
引きずられて喫茶店を出る時、すれ違った胱月院が真咲の耳元で囁いた。
「一つ、教えておいてやる」
いつもよりずっとトーンが低い。
「周りが俺をどう思っているのかは知らないが、俺が友達だと認めたヤツはいない」
まるで全てを憎んでいるかのような、黒い感情が渦巻く声。
「俺は、人間が、大嫌いだ」




もどる / のらねこTOP  / すすむ